JAPANとALBERTAから、JAPANAB(じゃぱなび)と名付けられた無料タウン情報誌。
アルバータ州在住の輝く日本人に焦点を当て、面白く、役立つ情報を発信中。
季刊誌「Japanab」は、2022年1月発行の「Japanab vol.39 2022 January」より、1月と7月の年2回刊誌に刊行サイクルを変更いたしました。
引き続き変わらぬご支援、ご協力を賜りますようお願い申し上げます。

2021 January - 55歳のカナディアンドリーム  ネイチャー写真家 北濵 登


 多くの人が夢見る、大好きな場所での早期リタイヤ生活。25年間続けた商売をたたみ、55歳の時に思い切って夫婦で神戸からキャンモアに移住したネイチャー写真家の北濵登さん。今年70歳の古希を迎え、愛してやまないカナディアンロッキーで悠々自適に第二の人生を謳歌している。若い頃に独学で始めた趣味の写真撮影を本業に据えて、カナディアンロッキーの持つ色彩美、造形美、そして動物の表情を撮り続けている。
 阪神・淡路大震災を経験し、仕事一辺倒の生活から「後悔しない人生を送るために、好きな事をして生きる」ことへと変わった人生観。「カナダ移住は時代の流れが背中を押してくれた」と早期リタイヤ海外移住を実践したお話を語って頂いた。


お米の商売は政府の認可制
私は1951年1月、7人兄弟の末っ子に生まれました。戦前から戦後しばらくは父の米穀の商いが順調で羽振りの良い時期もあったのですが、私が就学前に父が大病を患い、一家は貧乏のどん底に落ちました。年の離れた兄姉が何かとかばってくれていたのか、私はそれほど苦労した覚えがないのです。やがて7歳上の兄が父に代わって営んでいた青果小売店を手伝い、30歳で独立、米穀店を始めました。
お米の販売は時代によって変化してきました。1942年から食糧管理制度と呼ばれる、主食であるお米や麦などの食料価格や供給等を日本国政府が管理する制度があり、政府の認可を受けた業者だけが米の販売を行えました。これが1995年の法改正で民間主導の仕組みが導入され、さらに2006年には規制緩和されて誰でも米の販売・流通が可能になりました。私の独立当初はまだ政府の認可が必要でしたが、元々家業の米屋があったため、難なく認可が下り店を出せました。
 当時、米屋といえばお得意様のお宅に「御用聞き」に回り、足りない分を補充するのが当たり前でした。しかし、それでは人件費や車の経費がかかる。そこで神戸で初めてお客様がお店に足を運び、店頭でお米を販売するピックアップ式を導入しました。その分、価格破壊したと同業者に恨まれるほど安く高級米を提供しました。名前も「北濵米穀店」から「お米ランド・キタハマ」に変えてカジュアルなイメージに一新しました。この経営戦略が功を奏して、米屋だけではなく青果のお店も入れて全6店舗に経営拡大することができました。


阪神大震災を乗りきったら、もう怖いものはない
 順風満帆だったある日、激しい揺れで目が覚めました。1995年1月17日の明け方に襲った阪神・淡路大震災です。特に震源に近いとされている長田区にあった店の裏で火が出て、店の周辺は焼野原と化しましたが、不幸中の幸いにもうちの店に火が来る直前に風向きが変わり、店舗は火の手を免れました。ご存知の通りこの大震災の被害は甚大で、住居を失った人々が仮設住宅に移動し、町から人が消えました。買い物客がいないのでは商売もあがったりで、結局1年半近く赤字が続きました。でも従業員は家族同然。8人の従業員を解雇せずに守る事が私の務めだと思いましたし、それに応えて従業員もしんどい時に頑張ってくれました。若かったというのもありますが、絶対にこの苦境を乗り越えてやると、がむしゃらに働きました。あの被災を経験したら、もう怖いものはないです。
 自営業は休みがあるようでない。正月と、たまに日曜日にお休みするくらい。若い頃に友人とレイクルイーズにスキー旅行に来て以来、カナディアンロッキーの虜になり、毎年恒例でお正月はバンフにスキー旅行兼写真撮影に来る事が、私の最大の楽しみでした。「カナディアンロッキーの魅力は?」と聞かれても好きに理屈はない。恋愛と一緒です。カナディアンロッキーを眺めながら生活出来たらええなあと夢見ていました。
 震災後は「このままでは仕事以外に何もしないで終わる人生。もっと好きな事をしよう!」と思い、プロ写真家の撮影会ツアーに参加するようになりました。これが妻・順子との出会いです。当時彼女は大手旅行会社でツアープランナーとして撮影会ツアーを含め国内外のツアー企画をしていましたが、写真に興味があったようで、撮影会ツアーに添乗員として同行するようになっていました。60~70歳代のご年配の参加者が多い中、比較的まだ若く年が近かった私たちはいつしか意気投合。私が49歳の時に結婚しました。


どっちみちお金が減るなら、好きな事して減る方がいい
 ただでさえ日本人の米の消費量が減っているのに、2006年の米流通自由化後は、厳しい競争は避けられない。先行きが怪しいと感じた2005年に、大好きなカナディアンロッキーへの移住を妻に相談しました。「一生懸命やってもお金が減るなら、好きな事してお金が減る方がいい!」と妻に話したら、その二日後には移民コンサルタントの予約をしていました。妻も密かにカナダ移住したかったみたいです。
 カナダの技能移民クラスの申請には点数が足りなかったのですが、米屋は国の認可が必要なビジネスなので信用度が高いと投資移民プログラムを勧められました。申請した2005年当時の同プログラムの条件は3つ。①過去5年間に起業の経験、もしくは適格企業・政府機関における管理職経験があること。②合法的な手段で形成された80万加ドル(うち40万加ドルは現金)以上の個人純資産を有していること。③現金40万加ドルを政府指定の投資先に利回りなしで5年間投資するか(5年後に投資元金は返金)、もしくは約12万加ドルを前払いで政府に納めること(返金なし)。③のどちらを選んだかは秘密です。


人との縁に恵まれた移民生活
 2006年に移住して以来、好きな写真を好きな時に撮って生活しています。バンフのお土産屋さんや旅行会社の現地デスクで販売してもらったり、夏はバンフのファーマーズマーケットで出店したり、多くの出会いを楽しんでいます。ご縁があって、日本の大手旅行会社の2021年ロッキー観光パンフレットにも使ってもらってます。オンラインでも販売しています。
 妻は表千家茶道教授という肩書で北カリフォルニア支部(拠点サンフランシスコ)に所属し、バンフやキャンモア周辺から成るボウバレー地区で茶道の普及にのんびりと努めています。彼女は書く事が好きで、「カナディアンロッキーで暮らす」と、「出たっきり邦人・北米オセアニア編」の二つのブログを執筆しています。海外移住を夢見る日本のシニアに人気があるらしいです。
 移住当初は右も左も分からず、本当に色んな方のお世話になり、人とのご縁に感謝してもしきれません。年配の新参者の我々を温かく迎え、助けてくれたボウバレー地区の皆さんのお蔭で私たちの今があります。世代を超えてたくさんの友達ができたこともとても幸せです。我々も同じように、これから移住していらっしゃる方々のお手伝いをして、人の縁を繋げていきたいと思います。

取材・文/じゃぱなび編集部


プロフィール:北濵登(きたはま・のぼる)
1951年生まれ。兵庫県神戸市出身。米の小売店「お米ランド・キタハマ」と青果の「北濵青果店」など6店舗を経営。2000年に順子さんと結婚。会社をたたみ、2006年に投資家移民制度を利用して夫婦でカナダ移住。キャンモアに在住し、ネイチャー写真家としてCanadian Rockies Photoを運営する。
ウエブサイト: nobuk.jimdo.com
インスタグラム: @noborukitahama
販売:DIGIWALL インクジェット壁紙:www.tokiwa.net/digiwall/kitahamanoboru
北濵順子さんのブログ:カナディアンロッキーで暮らす(canmorite.exblog.jp/)
出たっきり邦人・北米オセアニア編(blog.goo.ne.jp/canadialife






0 件のコメント:

コメントを投稿