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2021 January - 先人に見る、コロナ時代のエチケット

 コロナ感染拡大の懸念は中々解消されません。感染予防を心掛けながら、コロナ後の生活スタイルはどのようなものになるのかを考えてきました。かつてのように自由に世界をあちこちを旅したり、地元の人と接触する楽しさを取り戻せるのだろうかと自分に問うてみるのですが、日本のGo Toの状況を見ていると楽観視できません。不特定多数の人が集まるところに出掛けたり、知らない人に出会うことが楽しみではなく、恐怖であり、忌避するべきものに変わりつつあるような気がします。  現代の倫理観の一つとして人種、国籍そして性別による差別は恥ずべきことだという認識を多くの人が共有しているはずです。またそれ以前の段階で、知らない人と出会った場合に敵意がないことを相手に示し、共生を希望することを伝える挨拶や動作は、どんな文化の中にも根付いていたものです。

大声は敵意のない印
 カルガリー・スタンピードなどのイベントで先住民が太鼓を叩いて声を張り上げながら舞台上に姿を現す様子を目にしたことはありませんか?合唱団が壇上に整列して、指揮者の合図を静かに待ち、一斉に歌いだす西洋的なスタイルとは対照的に、喚声を上げながら舞台に出てくるのが彼らの様式です。先住民は他の部族の支配領域に立ち入り、通過する時、奇襲攻撃の意図がないことを明示するために歌ったり、大きな声を上げて自分たちの存在を伝えたそうです。そして立ち入る際には相手に丁寧な挨拶を告げます。これがお互いの平和を守るための先住民の知恵であり、騒々しく姿を現すという一見して無作法に見えるやり方が、見知らぬ人と出会う時のエチケットとして成立するのです。
 今日でも、部族によっては声を上げて賑やかに来客を迎えてくれることがありますが、これも敵意はなく歓迎していることを伝えてくれている訳です。しかし喚声を上げて突撃するインディアンが騎兵隊と衝突して激戦を繰り広げるというアメリカの西部劇を記憶する人が多いせいか、先住民が声を上げて接近する様を本来の意図とは逆に警戒心や敵意の現れだと勘違いすることが今日でもあるようです。
 声の上げ方、太鼓の叩き方、そして歌の調子などは部族ごとに異なり、その違いは近づいてくる人々が何者であるかを遠くから聞いて察知する道具になっていました。我々日本人のお辞儀は彼らにとって、そのどれとも異なる新しい挨拶の様式であるはずです。興味深いことに、私の経験では言語や文化を共有しない先住民にもお辞儀は通用するものです。初めて会った部族の長老たちに静かに頭を下げる動作は、こちらに敵意がないこと、相手への敬意を示すしぐさとして自然に受け止められました。我々がお辞儀で挨拶をするのは、人間の弱点である頭頂を無防備に相手に晒し、視線を外すことで相手を攻撃する意図がないことを示しているのですが、そうした意図が言外にも先住民に伝わるのだと思います。
 コロナ感染が拡大した状況で、外を歩くとき歩道で他者とすれ違うことがあります。その時にお互いに安全距離を取ることを配慮しなければなりません。歩道から一歩外れて、相手に道を譲り、すれ違うことをするようになりました。お互いにマスクをして顔の半分を隠していますし、飛沫を警戒して言葉を交わすことはありません。目礼で挨拶をするのみです。それでも「お先にどうぞ」、「お先に失礼します」という意図は伝えあえるものだと実感しています。日本には「傘かしげ」の習慣がありました。雨や雪の降る日には傘を差します。狭い道で傘をさしている人とすれ違う時、傘の先端が相手に当たったり、自分の傘から落ちる滴で相手をぬらさないように、お互いの傘を相手のいない側へ傾けるものです。野原の一本道を歩く人は蓑と笠をつけていたので、そうした風習は生まれなかったのでしょうが、立て込んでいた江戸の町では「傘かしげ」は粋なしぐさであるだけでなく、実用性のある動作だったのです。コロナの時代に歩道を譲り合って散歩する姿に、江戸の頃に行われていた「傘かしげ」のしぐさを思い出します。


ネットではまだ味わえない親近感
 差別は恥ずべきことだと分かっているのですが、コロナ感染に関しては人種や性別など、いわば人の外見に基づいた差別とは異なる、未知なるウィルスへの恐怖が引き起こす差別に陥りやすく、中々、理性的には割り切れないものなのかもしれません。意図しなくとも気付かぬうちに感染が広がることがありますから、知らない人だから用心する、敵意があるから避けるというわけにはいかず、誰に対しても警戒心を抱いてしまうことになりかねません。
 そのような環境で他者との融和をどうやって実現していくのか、連帯感や共感をどうしたら再び味わうことができるのかを我々は模索しています。ネットを介して繋がり、遠隔方式の飲み会をすることも一つの解です。が、経験してみると臨場感に欠けますし、相手との距離を縮められたという充足感もイマイチで、これといった妙案はまだ見つかっていないような気がします。
 それは私生活において不満足な気持ちを残すだけでなく、ビジネスにおいても大きな課題の一つです。会ったことのない相手とビジネスの協議や交渉をする時に、今までなら顔を合わせて名刺を交換して、会食などで時間を共に過ごすことで相手の性格を理解して距離を縮めることで信頼関係を作っていったものです。重要な商談はその後で行うのがビジネス成功の足がかかりでしたが、そうした手段はコロナの時代には使いものになりません。ではネットを介して同じ効果を上げることができるのか?それは疑問です。私なんかは、会合の終わりにいきなり画面を閉じるのも芸のないように思われ、手を振って挨拶を送りつつ退場していますが、それは有効なのでしょうか?
 我々はコロナ感染と隣り合わせの時代に適した、新しい生活スタイルを作り出そうと努力しています。他者と上手くつきあっていく工夫というのはストレスを避けるためにも大切なことです。まだ最適解はなく、試行錯誤で発展途上にあるのだろうと思います。距離をとりつつも挨拶をして、害意がないことを伝え合いながら共生していく方法とは何か?そのことを改めて考えていかないとビジネスもやり難くなるし、隣人や家族という本来なら自分と近いところにいて、自然に親しくできる人たちとの関係もギスギスしたものになってしまいます。カナダ先住民の知恵を拝借して、声を上げて歌いながら登場するというのは飛沫感染の恐れがあるので中々やれません。日本人のお辞儀の有効性はまだ確認中です。江戸の人々の習慣である「傘かしげ」は使わせてもらえそうな示唆を含んでいます。他にも先人たちの生き方の中に、我々がコロナ感染拡大に耐えながら生活する上で、使えそうなものはまだまだあるのだろうと思います。クリスマスからお正月という一年の中でも特別な日々の中で、それを探すことで良い年を迎える準備にします。

風谷護
カナダ在住は20年を超えるエネルギー産業界
のインサイダー。趣味は読書とワイン。






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