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2020 April - アルゼンチンタンゴに魅了された信州のボディービルダー LEO SATO

「タンゴ… それは水平な欲望の垂直な表現(Vertical expression of a Horizontal desire)と言われてるんですよ。」
 そんな情熱的な会話から始まったインタビュー。タンゴや社交ダンスと言えばアル・パチーノ演じる盲目の元軍人がタンゴを披露する「セント・オブ・ウーマン」や、日本で爆発的にヒットしハリウッドでも映画化された「Shall We ダンス?」を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?
 カルガリーで名を馳せる日本人のタンゴダンサーがいるとの情報を耳にして半信半疑で連絡を取ってみたところ、快くインタビューを受け入れてくださったのがレオ・サトウさん。お会いしてみたところ、長野県で生まれ育った生粋の日本人。元ボディービルダーで「ミスター長野」の称号を得たサトウさんが、どんな経緯でここカルガリーで「アルゼンチンタンゴといえば、LEO!」と言われるまでの地位に上り詰めたのか。失敗や不運を好機ととらえてきた彼のこれまでの人生を語って頂きました。


国立大学の共通一次試験に落ち、留学決意
 新潟県との県境にある長野県飯山市に生まれ育ちました。斑尾高原スキー場のある所です。父親は祖父が経営していたりんご用の果実袋を作る会社に勤めていましたが、その後コンビニの走りヤマザキデイリーストアを始めました。
 私は国立大学に行きたかったのですが共通一次に落ちてしまいました。浪人するよりもアメリカに留学したいと言うと、父親に「何考えてるんだ。うちにそんな金はない。そんな夢見てる場合か!」と叱咤され、自分でお金を貯めて留学するため上京しました。
 もう一つ東京に行きたかった理由が、長野よりボディービルの練習環境が良かったこと。私が14歳の頃、たまたま父親の顧客が隣町で始めたボディービルジムに、父親に連れられて行ったのをきっかけにボディービルを始めました。父親は3日坊主でしたが、体格が良く厳しい父親と喧嘩になった時のために私は続けました。高校時代からボディービル大会に出場するようになりました。上京してすぐに元ボディービルミスターユニバース金メダリストの末光健一さんに師事し、20歳の時にボディービル長野県大会で優勝しました。ボディービルの大会ではダンスを交えた審査もあるので、元々社交ダンスのインストラクターだった末光師匠からタンゴや社交ダンスも教えて貰いました。


5年間で1千万円!留学資金を貯めたアルバイト時代
 神田川のほとりにある3畳一間のアパートを月8500円で借りました。上京してすぐに雇ってもらえたのが清掃員の仕事。次は英検準一級を履歴書に書いて英語が話せるとアピールして派遣会社に登録し、クレジットカード会社に派遣されました。仕事は電話での返金催促。その後、建築学志望ならと建築会社に派遣され、上司の勧めで2級建築士の資格を取りました。派遣会社や建築事務所で良い上司に恵まれました。  日中の仕事が終わってから、雨の日には安くビニール傘を仕入れ、新宿の東口の前で売りました。バブル時代、仕事帰りの良い服を着ている人達は雨に濡れたくない。近くのコンビニより少し安い金額で駅前で売ると一晩で10万円位売れたものです。
 それから親には言えませんが、自分のボディービルのブロマイドを束ね写真集にして、新宿3丁目のルミネールというお店で買ってもらいました。時にはそのお店が三千部買ってくれる事もあって、これも良い収入源でした。
 朝から夕方まで仕事をして、その後3時間ジムで鍛え、夜の10時から深夜1時までファミレスで英語と建築の勉強する日々を5年間続け、1000万円貯めました。TOEFLも日本で何十回と受け続けていたので、ちょうどお金が貯まった頃に語学留学せずにそのままカレッジに入れる点数に達しました。


高層ビルを建て構造設計士になりたい
 まず最初はテキサスにあるCentral Texas Collegeに入学しました。しかし1年後、化学の答えに反論し先生を怒らせる発言をして停学。かろうじて紹介状は貰えたので、同じテキサスにあるAlvin Community Collegeに編入します。そしてUniversity of Texas at Austin(テキサス大学オースティン校)に編入し、構造工学を修了しました。高校時代から建築に興味があり、デザインよりは構造設計者となって高いビルを建てたかったから。
 卒業後、サンフランシスコに移るも生活費が高い!仕方なくオークランドに移り建築事務所で雇われ、H-1Bビザ(専門職ビザ)を得て4年間程勤めました。大学最後の年から社会人になると時間に余裕が出来たので、カリフォルニア大学バークレー校の社交ダンスクラブに入り、同校やスタンフォード大学のパーティに参加。この頃からダンスをさらに楽しむようになりました。クリントン元大統領の娘、チェルシーも来ていました。日本では筋肉男子は全然モテなかったのに、北米の女性は鍛えた“踊れる”男子好きが多く、やっと陽の目を見た感じでした。
 ところが勤めていた会社の経営悪化で解雇されてしまい、専門職ビザが失効。この機会にアルバータ大学で修士を取ろうと弁護士に相談したところ、構造設計士の経験を活かし技術者移民申請を薦められました。幸い1999年にカナダ移民となることができました。


失業を機にアルゼンチンタンゴを極める南米バックパックの旅
 アメリカのビザを失いカナダに移住する頃、夢だった南米バックパックの旅を決意。メキシコから、エルサルバドル、コロンビアそしてエクアドルまでをバックパックで旅しました。行く先々で社交ダンス教室を訪れて勉強するつもりが、南米は民族ダンスかタンゴしかない。でもタンゴならどこの国でも若い男女に人気があリました。コロンビアを旅行中、タンゴが大好きな素敵な女性に巡り合いました。3カ月の旅行のつもりが、気がつけばなんと1年間半。そしてコロンビアで出会った魅力的なその恋人とアルゼンチンタンゴのメッカ、ブエノスアイレスを訪れ、本格的に学びました。
 世界的にみるとタンゴは一番人気のあるダンス。これは日本でも然り。戦時中、英語や北米の音楽が禁止された中、アルゼンチンタンゴは許され多くの愛好家が生まれました。2003年からタンゴの世界選手権がはじまり、毎年ほぼアルゼンチン人が優勝している中、日本人は3回優勝していて、アルゼンチンに次いで優勝回数2位なんですよ。アルゼンチンタンゴは世界中どこにでもあって、サルサと違い、国が変わっても踊りが同じなのです。


カルガリー不況の波を受け、タンゴスクールに専念
 カナダに移住後エドモントンにしばらく滞在し、2001年カルガリーに定住。昼は構造設計士、夜は自ら始めたタンゴスクール TangoCalgary.comのインストラクター。座ってゆっくり食事する時間がない程、朝から晩まで忙しい生活を14年間送りました。
 5年程前のある日、同僚が癌で入院しました。「病院にいるせいで解雇されるかもしれない」と亡くなる2日前まで嘆いていました。また私の父親は63歳で病気で亡くなったので、もしも自分の余命があと18年程だったらこのままで良いのかと自問自答するきっかけになりました。そこにカルガリーの不景気の波が私にも襲い掛かりました。
 他の会社で働くという選択もあったけど、蓄えもそれなりに出来たし、何よりタンゴスクールが順調。常時100人位生徒さんが来てくれて、楽しいクラスと定評がありました。そこで思い切ってタンゴスクール専念に切り替えました。サンフランシスコのような大都市だと優れたタンゴダンサーが山のようにいますが、幸いカルガリーでは私は早い段階から皆さんにタンゴダンサー・インストラクターとして知っていただき、TangoCalgary.comは今年20周年を迎えることができました。ここまで来られたのもカルガリーの温かい人々のお蔭です。現在はショーに出演し、後継インストラクターの育成と、タンゴの演奏に欠かせないバンドネオンという楽器の練習に励んでおります。
 上手くいかないことがあっても、そのお蔭でかえって良くなることも沢山あります。まさに「人間万事塞翁が馬、禍を転じて福と為す」ですね。


 長野県飯山市出身。高校卒業後、アルバイト生活中に2級建築士の資格取得。1992年にアメリカ・テキサス州に留学し、構造工学を学ぶ。カリフォルニア州オークランドで構造設計士として勤めた後、1999年にカナダに移民、エドモントン滞在。2001年カルガリーに移住。構造設計士の仕事の傍ら、TangoCalgary.comというアルゼンチンタンゴスクールを主宰。数々のダンスショーに出演、世界のタンゴ大会で何度も入賞を果たす。2008年と2016年にCalgary Philharmonic Orchestraの舞台でタンゴを披露し注目を浴びる。TangoCalgary.comを運営するPiazzolla Ltd. 社長。






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