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2020 April - 春眠を奪った犯人は誰?

 3月8日(日)の午前2時からDaylight Saving Time(DST)が始まりました。週末の真夜中過ぎに時計の針が1時間進むのです。日曜日の朝、目を覚ますと1時間損したような気分になる1日です。この取扱いは11月1日まで続きます。「夏時間」とも呼びますが、「春は名のみ風の寒さよ」という当地の3月で「夏時間」を宣告されても生活実感としては素直に納得できないものがあります。ある日突然に睡眠を1時間削られた、という恨みだけがモヤモヤと残ります。  我々の「春眠」から1時間を奪ったのは誰なのか?その犯人は夏に長くなる日中を有効に使おうと提唱したベンジャミン・フランクリンであるとされてきました。あの、嵐の中で凧を飛ばして雷雲の帯電を確認した御仁です。「早寝早起きは、健康、富裕、賢明のもとである」と彼は主張します。フランクリンは1784年に発表した論考で、朝寝坊ができないように窓のシャッター(日除け)に課税すること、そして日の出と同時に教会の鐘を鳴らし、大砲をぶっ放して人々を目覚めさせることを政策として提起しました。何と迷惑な提案ではありませんか!
 実はフランクリンの犯人説は当たっていません。彼の構想は今日のDSTのように洗練されたものではありませんでした。18世紀の終わりには各所にある時計の精度は不十分であり、統一的な時間管理はできなかったのです。彼の「早起きは三文の徳」という思い付きから100年近く経った1895年、ニュージーランドの昆虫学者が仕事の終わってから昆虫採集ができるようにという動機で、2時間も時計を早めることを提案したのが現代的なDSTの嚆矢となります。そして1905年に英国のウィリアム・ウィレットがDSTの法制化を議会に提案。彼もまた、ロンドン市民が朝寝坊している間に朝の乗馬を楽しみたい、そしてゴルフ場で日の出と共にスタートしたいという、ひどく個人的な動機から一大キャンペーンを展開。しかし彼の提案は英国議会で審議されたものの法制化には至らず、朝寝坊組が勝利したのです。


戦時中の省エネでDST
 DSTは屋外活動の時間を長くする目的で提案されてきただけでなく、エネルギー事情とも深く関わってきた習慣です。欧州で勃発した第一次世界大戦がその採用に大きく作用しました。1916年にドイツ帝国が支配領域のオーストリア・ハンガリーも含めてDSTを採用したのが国家規模で制度化された始まりです。戦争遂行中に当時の主要燃料である石炭が不足したことから、DSTはその対処策として浮上しました。ドイツの交戦国であった英国とその同盟国やカナダも同じ戦略を採用したことから、DSTがあちこちで採用されました。
 面白いことにカナダでは、それよりも早くDSTがある町で条例化されています。スーペリア湖に近いオンタリオ州のポートアーサー(現在のサンダーベイ)という町で1908年に既に採用されていたことには驚きます。この小さな町の議論は戦争とは全く関係のない、のどかな動機で始まりました。ある地元の人が子供たちが夏の間、外での遊びを少し長く楽しめるようにと市議会に請願し、6月から9月に時計を1時間進めることが制度化されました。これがカナダにおいて最初に導入されたDSTとなります。この動きは周辺にも波及したのですが、その過程では不都合もありました。川を挟んで隣同士の町を結んでいる渡し船の運航時刻表の表示が違い、乗り遅れる住人が続出するという混乱があったそうです。


資本主義だからこそDST?
 さて1918年に第一次世界大戦が終了して石炭消費抑制という大義名分がなくなり、DSTは用済みとなり、欧州各国で廃止されます。しかし戦場にならなかった米国では終戦後もDSTの継続について独自の視点から議論が続いていました。
 それは資本主義色がとても濃い議論でした。鉄道事業者は列車運行が複雑になるとしてDSTを嫌い、農業関係者は朝の貴重な時間を失うことに猛反対。その一方でデパートや商店主は、客が買い物を楽しむ時間が伸びるとの理由でDSTを歓迎しました。そしてニューヨーク証券取引所などはロンドン市場との時差を使って有利な取引ができるとして支持しました。
 そして、この議論ではゴルファーの存在も忘れてはなりません。英国議会に法制化を働きかけたのも熱心なゴルファーでしたが、この当時の米国大統領のウィルソンも大のゴルフ好きでした。彼は戦後にDSTを廃止するという議会決議を、数度に渡り大統領権限で覆したのです。20世紀初頭の米国ではゴルファーより鉄道業界や農業関係者の発言力が大きく、1919年にDSTは廃止となります。しかし第二次世界大戦が始まり、ルーズベルト大統領が1942年から1945年まで「戦争時間」としてDSTを通年適用することで復活させました。
 その後は米国の各州や市で個別の対応が行われ混乱の時代となりました。交通運輸や通信放送の発達に伴い、統一した時間の必要性が問われるようになり、1966年から統一時間法が制定されて米国全土を対象にした時間帯の整備が進みました。


エネルギー危機でDST導入論が再燃
 1973年にアラブの産油国諸国が原油の輸出を管理することになり、第一次エネルギー危機の到来です。これを契機に燃料の温存が米国では再び大きな問題になり、またまたDST必要論の復活です。DST導入の賛否両論が激しくぶつかり合い意見集約ができない内にエネルギー危機が収束したのですが、1986年に米国議会は「4月の最初の日曜日から10月の最後の日曜をDSTとする」法制化を行い、今日の原型が整いました。
 2000年代前半にエネルギー危機が再来し、米国は従来のDSTに3月と11月を追加してエネルギー消費を抑制するため法改正を行いました。議会の要請でDSTは省エネ効果があるのかを評価することになったのですが、照明による電力消費量は小さくなった一方で、冷暖房需要は増加し、省エネ効果は小さいという結果でした。しかし、仕事終わりに買い物に出かけることができて消費は伸び、ゴルフ場の営業も飛躍的に伸びたことが分かりました。またハロウィーンが「夏時間」に含まれ、子供たちは明るいうちからTrick or treatを始めるので、ハロウィーンの仮装アイテムとキャンディの売り上げが目立って増加したという分析もありました。それだけが理由ではありませんが、米国が原油・天然ガスの自給を実現した現在でも、この「夏時間延長」の取扱いは有効です。


カナダの時間はバラバラ
 米国と国境を接しているカナダといえば、日常生活だけでなく、経済活動も米国と深く繋がっています。第一次世界大戦中以降のDSTの採否と混乱は、常に米国と同調していました。1960年代以降の時間帯の整備やDST導入もカナダでは米国と歩調を合わせて進められてきました。「春は名のみ」の寒い3月の日曜日に、いきなり「夏時間」が始まるのは米国のエネルギー政策が真犯人だと分かるのです。
 細かく言えばカナダでも地域によって異なる取扱いがあります。属する時間帯やDSTについては、州や市町村で独自の対応がされています。例えばユーコン準州では2020年3月8日から一年中DSTを採用することになりました。またサスカチュワン州はDSTを導入していないため、冬にはウィニペグと同じ時間となり、夏はカルガリー時間になります。同州では州内の市町村が中央時間帯を採用することを法制化していますが、アルバータ州とサスカチュワン州の境界にあるロイドミンスターという町は特例で山岳時間帯を採用することが認められています。ブリティッシュコロンビア州でもロッキー山脈の東側のピースリバー地域にあるドーソンクリーク、フォートセントジョンなどの町は山岳時間帯に属する傍ら、DSTを採用していません。なのでこれらの町の時計は冬はカルガリー時間となり、夏はバンクーバー時間となるのです。飛行機に乗り遅れないように注意が必要です!


風谷護
カナダ在住は20年を超えるエネルギー産業界のインサイダー。
趣味は読書とワイン。





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