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2019 October - 建築に魅了された永遠の求道者 ヒロ・ニシザワ

 10年の年月をかけて2017年に完成したカルガリー空港の新国際ターミナル。その建設に携わった日本人建築士がいる。空港の他、今号の表紙に写る100年前に建てられた石造りの学校の隣に併設された新館CBE Education Centreなど、私達の生活に身近な建物のデザインを手掛けるヒロ・ニシザワさん。日本で建築学を学び、建築士の資格を得た後、英国でさらに深く世界で通用する建築学を追求し、今はカナダで建築家として大型プロジェクトを次々に手掛けて活躍されている。人の生活に関わる全ての建築に携わりたいというニシザワさんに、これまでの軌跡と、建築に対する想いを語ってもらった。

経験重視の幼稚園児
 名古屋の下町、両親の経営する小料理屋に一人っ子として生まれました。子供の頃から近所の工事現場を見つけては、そこに落ちている木の端材、鉄クズ、コンクリートの破片で遊んでいました。今ほど厳重な
「立入禁止」もなく、職人さん達が「おい、坊主、お菓子食うか?」と可愛がってくれました。また世の中にある色んな素材や道具に興味を持ち、木、金属、布、紙、粘土、土などをノコギリ、金づち、彫刻刀を使いこなして、何かを作って遊ぶのが大好きな幼稚園児でした。この頃から何事も失敗を恐れずやってみてそこから学ぶという経験重視に育ったと思います。
 当時、芸術家岡本太郎の「芸術は爆発だ」というフレーズの大阪万博のCMを見て、真剣に芸術家になろうと思っていました。ところが店に来るお客さんに、「ヒロちゃん、芸術家では飯食っていけないぞ」と諭され、その時から大工や設計士になるという選択肢が頭にありました。
 愛知県には、瀬戸焼、美濃焼、常滑焼があり陶芸が盛んで、デパートの展覧会によく連れて行ってもらいましたね。また書道、華道、版画、彫刻などの観賞も大好きで、それら見て感銘を受けると、実際にやってみたくなり、いろいろ習わせて貰いました。
高校行きなおしで、建築の世界へ
 大学を目指し、最初は高校の普通科に入学したのですが、やりたい事が明確で将来の道も決まっていたので「3年間も待てない!」と、進路変更を決断して退学し、翌年5年制の国立高等専門学校機構豊田工業高等専門学校の建築学科に入学しました。
 卒業後の就職先は名古屋にあるアトリエ系建築設計事務所でした。最初の仕事はトイレの設計から始まります。トイレは建物の中で一番複雑で難しいと言われ、これを完璧にこなせるようになってようやく、建物全体の設計を任せてもらえるようになるのです。20代後半、厳しい先輩に「仕事だけが建築だと思うな」と言われます。ある時、その先輩が傾倒していた安藤忠雄の本に出会います。独学で建築を学んだ安藤の広く深い建築観、そして建築に対する真摯な想い入れが綴られているその本を読んで衝撃を受けました。そして自分の建築に対する考えがとても浅く、想いも「建築を愛する」に至ってないと気付き、それからは仕事のみではなく、プライベートの時間を使って遠方まで建築や美術館巡りに出かけたり、建築家の講演会や建築国際会議の広聴にことごとく参加したりして、広く建築思想や手法を学び、感性を磨き、やがて海外の建築にも目を向けるようになっていきました。
カナダ人女性と名古屋で想定外の結婚
 元々、海外に行くつもりがなかったので、英語力は皆無でした。建築で手一杯でしたが、あるパーティをきっかけにJETプログラムで日本に滞在していた英語教師のカナダ人女性と知り合い、結婚に至りました。子供二人を授かり順風満帆のはずが、妻が8年間半の日本滞在でホームシックにかかります。自分も建築において次のステップを模索していた時期でした。どこか英語圏に移住しようと考えましたが、突然海外に行っても仕事にありつけないし、じゃあ先ず欧米の建築を学んで、資格を取って仕事に就くという計画を立てます。家財一切を売払って1998年に家族同伴で英国ロンドンにあるThe Architectural Association School of Architectureへの留学を決意しました。
銃殺刑のような英国式プレゼンでゾンビ状態
 日本の建築は感性を重視したものが多いですが、欧米では感性より理論が重視されます。物事を常に理論的に考えて良し悪しを決めていく。だからデザインに於いても、何故そうしたか、何故こうなるのかなど判断や結果に必ず理由がつくのです。感性は個人的な美術意識から生まれるので、一部の人が理解出来ても、皆が一様に理解するような説明がうまくつかない。芸術の世界はそれで良いけど、建築は異なります。在学中は感性を全部否定され、それはつまり自分自身を否定されているような気持ちになりました。
 この世界に適応する為、気持ちをリセットし、日本で学んできた建築や文化のバックボ-ンは一旦ポケットに収め、ゼロから始めました。プレゼンでは討論大好きなイギリス人建築講師陣から容赦のない言葉の銃弾を浴び、いつも銃殺刑に処せられた気分でしたね。理論武装することでしか身を守ることは出来ません。あまりに厳しくて、心が折れまくりました。寝る間も惜しむ過酷な日々で、数年後、最終学年まで残った頃にはゾンビのように身も心もボロボロになっていました。
パンと豆と芋の生活で虎穴虎子
 幼い二人の子の育児で仕事につけず、毎日パンと豆と芋のいずれかを組み合わせた食事ばかりで、貯金も底をつき、家族に経済的に辛い思いをさせたと思います。しかし「虎穴に入らずんば虎子を得ず」に例えると、自分の虎の子は世界的に通用する建築学。事を成すにはリスクを負わないといけない。当時は目標を設定し、達成する為に全力を尽くす「山登り型」思想で生きていたので、厳しい環境でしたが、苦ではなかったです。好きな事をさせて貰ったことを今でも感謝しています。
攻撃的な英国式スタイルに、カナダの同僚どん引き
 英国で仕事を見つけ2年程経った頃、移民法が厳しくなりワークビザの延長が出来なくなりました。そこで2004年、妻の故郷であるカナダに移住を決意。最初はケローナに住み、仕事が見つかってからカルガリーに引っ越してきました。カナダで初めて建築事務所に入って戸惑ったのは、建築のプロ同士としての話が通じないこと。英国式の討論が普通だと思って接していると怪訝な顔をされる。やがて喋る人がいなくなり、人が離れていきました。疎外感と孤独感が強くなり、ある日医師に診て貰ったら鬱状態だと言われました。ちょうどリーマンショックの頃で、子供の一人も病気になり、人間関係も仕事もうまくいかず、八方塞がり。どん底に落ちていく気持ちでした。
山登り型から波乗り型へ
 幸いにも救われたのは、カナダの大自然によってヒーリングされていったこと。英国での山籠り生活から、カナダに来てからは徐々に人里の生活に戻っていく感覚でした。3人の子供達と過ごす時間が増え、頻繁に家族でキャンプに出掛け、近所付合いも積極的にして、建築以外の事に目を向けられるようになっていきました。こうしてカナダの豊かな自然と子供達のお蔭で鬱状態から抜け出し、生活も家庭中心に変わりました。人生観もこれまでの設定した目標に邁進する
「山登り型」から、変化を想定して柔軟対応して展開していく「波乗り型」に切り替わり、仕事でのコミュニケーションも相互理解と対話を大切にするスタイルへと変えて今はうまく順応しています。
 若い頃、建築業界での40代、50代はまだ「鼻たれ小僧」だと教えられました。60代、70代でやっと建築家らしくなるとのことですが、その通りですね。だから今は、まだ自分は道の途中です。デザインすることで環境に貢献していきたいし、デザインは人の生活を向上化、活性化できると信じています。これからも人の生活を豊かにする為の建築に関わっていきたいですね。

プロフィール: ヒロ・ニシザワ (西澤弘宣) 一級建築士
王立カナダ建築家協会 アルバータ州アーキテクト
 1964年愛知県名古屋市生まれ。豊田工業高等専門学校建築学科を卒業後、建築設計事務所に12年間勤務。1998年に英国ロンドンのThe Architectural Association School of Architectureに留学しディプロマ卒。卒業後は2年間英国の建築デザイン事務所に勤務。2004年に家族でカナダに移住し、大規模なプロジェクトを抱える建築デザイン事務所に勤め、数々の実績を残す。二男一女の父。







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