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2021 July - 先住民族寄宿学校の「黒歴史」


 ブリティッシュコロンビア州カムループスで5月、1978年に閉鎖された先住民寄宿学校の跡地から215人の子供の遺骨が発見され、大きなニュースになっています。カナダ政府は19世紀から先住民の同化政策を進めていました。その場所が先住民寄宿学校(Indian Residential School)であり、連邦政府が各地に建設した寄宿学校をキリスト教団が運営していました。ニューブランズウィックとプリンスエドワードアイランドの二州を除くカナダ全国の州と準州にあり、カルガリーの近くにもストーニー民族(Stoney)やサーシー民族(Sarcee)のための寄宿学校が複数設置されていました。カナダ最後の寄宿学校が閉鎖されたのは1996年のこと。なので距離的にも時間的にも私たちから遠い所で起こった話ではありません。
 2008年に当時のハーパー連邦首相が先住民の人々に対し、先住民寄宿学校政策について公式に謝罪し、その後の政府の報告書では寄宿学校で児童虐待があったこと、またこの同化政策が、先住民が母語や伝統的な暮らし方や文化活動を次世代に継承することを阻害したもので「文化的なジェノサイド(genocide、ある人種・民族を計画的に絶滅させようとすること)」であったことが公認されました。カムループスの寄宿学校跡地で215名もの児童たちの遺体が発見されたことは、文化的なものに留まらず、「ジェノサイド」の文字通り虐殺に近い行為であったことが示され、カナダの「黒歴史」であるという自責の念とともに注目が集まっているのです。
 先住民族寄宿学校が目指したものは子供たちを家族や帰属する民族から切り離して、その言語や行動様式を消し去り、「カナダ人らしく」育てようということでした。その過程で先住民がそれまで続けてきた生き方は否定されました。家族から強制的に引き離された子供たちに「悪」影響が及ばないようにと、寄宿する子供たちと家族との接触は厳しく規制され、寄宿生活を通して時間厳守や整列などの規律と、英語かフランス語での学習が求められました。さらに学校関係者による児童に対する肉体的、性的、精神的な虐待が横行していたことが生存者たちの証言で伝えられています。

恐怖に満ちた寄宿学校生活
 筆者は先住民と親しく接した経験があります。そのある民族の長は先住民族寄宿学校の生存者でした。彼は整った英語を話しました。こちらが日本人だと知ると、彼は日本にまつわることを滔々と話してくれました。ジンギスカンをアジアの英雄として敬っており、日本は襲来したモンゴル勢を二度に亘って撃退したことを叙事詩のように物語ってくれました。そして不敵な笑みとともに「日本はいつ仕返しに行くんだ?」と話されたことを記憶しています。彼は寄宿学校で流ちょうな英語と居留地を超えた世界の広い知識を身に着けたのかもしれません。
 ただ困ったことに、面会の約束日時に待ち合わせ場所まで出向いても彼は現れないのです。待たされること数日にして、ようやく会えるというのは珍しいことではありませんでした。これは今でも伝統的な暮らしを守る先住民の多くが日の出や日没の回数、猟の獲物の数により帰るべき時を知るからです。彼は曜日や時間により行動していないのです。カムループスの寄宿学校の報道で映し出された当時の様子では、児童は髪を整え、西洋式の衣服を身に着けて、整列して校舎に入って行きます。教室や食堂で机に行儀よく向かっています。しかし、その姿は私が目撃してきた伝統的な先住民の暮らしぶりとは相当違うものでしたから、児童が学校に順応する苦労が想像できました。
 その民族の長は寄宿学校が恐怖に満ちた生活だったことを教えてくれました。部屋や教室から突然連れ出された子供が二度と戻ってこなかったこと。精神的に追い詰められた子供たちが凶暴化したり、自傷自死する姿を目の当たりにしたこと。そうした経験と常に隣り合わせで暮らす気持ちがどんなであったかを彼は語りました。その時の暗い表情と生存者特有の淡々とした口調が、寄宿学校の黒歴史を何よりも実感させてくれました。既に初老の頃であったにも拘らず、彼は当時のことが忘れられず、今でも学校の建物を見ると恐怖と憎悪の気持ちがこみあがってくるそうです。ある世代の先住民に共通する記憶と感情なのです。

先住民はどんな暮らしを?
 私は先住民から電気や水道がなかった生活のことも聞きました。20歳前後のお嬢さんが話してくれた子供の頃は、家族全員が毛皮にくるまって寝ていました。ビーバーの尻尾を薪ストーブで焼いてくれる朝は特別で、その匂いがしたたら、どんなに寒くても暖かい寝床から飛び出したそうです。兄弟の誰よりも早くストーブに辿り着くことでご馳走にありつけたから。2000年代の初頭でも生活インフラが未整備だった地域があることが窺えました。そして前出の民族の長の話でも、1980年代まで道がなく、森林原野を歩いて町まで辿り着くのが大変だったそうです。そして、たった20年前頃まで毛皮や薬草を生活物資と交換するために集まるお祭りのような市場があり、他の民族の仲間と交際する高揚感から厳しい道のりが苦にならなかったと、彼は自らの青春をそう振り返りました。
 先住民の居留地(reserve)の多くは遠隔地に分散されています。これらの居住地ではつい最近まで生活インフラが整っておらず、今でも安全な飲み水がなかったり、悲惨な住宅事情が見られます。子供たちの教育は寄宿舎で生活しながら学ぶというのが19世紀前半では自然な発想だったのは分かります。また当時の白人の観点から、先住民を「野蛮」な暮らしから引き離し、衣食住を整えてあげることは善いことだと思ったのかもしれません。しかし、やり方は間違っていました。
 元寇を叙事詩のように語る強い男は民族の長になりましたが、例外的な存在です。寄宿学校に入れられた先住民の多くは、英・仏語力や西洋式の教育を身に着けたという成果よりも、民族のアイデンティティ喪失や寄宿中の恐怖体験という遥かに大きな重荷を抱えて残りの人生を生きていかなければなりませんでした。卒業後も「カナダ人」に同化した子供たちが部族に戻ると更なる悲劇が待っていました。親の世代と言葉が通じません。行動を規律するものや時間の感覚が一致しません。部族内での生活に違和感を覚える一方で、カナダ社会からは先住民として差別を受けます。
 このような社会的孤立や寄宿学校での虐待によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)により、アルコールや薬物への逃避など、様々な問題を抱える人が多く出ました。その人たちがまた親になり、子供を育てなければなりません。大人としての中核となる自分のアイデンティティ、つまり先住民としての自信を寄宿学校により抹消されてしまった世代は子育てが上手にできないなど、今日まで寄宿学校の弊害が続いています。
 トルドー連邦首相はカムループスの寄宿学校での衝撃的な発見を受けて、学校の運営主体であり、自分も信者であるカトリック教会を非難し、事実解明を約束しています。しかし、寄宿学校が残した本質的な問題を解決するための知恵はまだ誰からも提示されていないように思います。同化政策は失敗しただけでなく、先住民の人々から、かけがえないものを奪い取り、悪影響を今でも残しています。寄宿学校が廃止され、政府は先住民コミュニティの近くに学校を作り、子供たちは家から通えるようになり、教育環境は過去25年間で改善されました。それでも先住民社会では薬物依存、自死の多発、暮らしの貧困が続いています。姿を消した児童が生き返ることは残念ながらありません。せめて文化的なジェノサイドにより断絶した伝統的な生き方を彼らが取り戻すことを祈りながら、これからカナダが黒歴史をどう整理していくか見守りたいと思います。

風谷護
カナダ在住は20年を超えるエネルギー産業界のインサイダー。
趣味は読書とワイン。





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